昭和40年01月12日 夜の御理解
(途中末尾切れ)
昨日から日奈久の富永先生が見えておられた。今日お食事をさせて頂きました」あとに「先生、先生が一番始めに神様から色々お知らせ頂かれるようになったのはどう言う様な経路で、どう言う様な風にしてお頂きになられたのですか」という質問を受けた。そこだけ話したって出来んから、私は引き揚げて帰ってからのことを荒々話させて頂いたんですけれども、話させて頂きながら私が感じたことです。
それは私はいつの場合でも、神様を絶対のものとして行動しておったことですね、そしておかげを受けられんのは、こちらの信心が間違いだと言うところに、焦点を置いて修行がなされ、又修行の信心の工夫がなされておったということです。引き揚げて帰りました。始めて本当の信心、本当の信心を求めての信心が出来て、まあそれまでは、いうならおかげを頂くための信心であった。
けれども、引き揚げて帰ってからは余儀なくそうではなくてから、そこにいよいよ感じたんですね。これは本当の信心させてもらわなければ駄目だということを。そして、まぁ願いの筋も段々信心が、少しづつ進むにつれて変わって参りましたのですけれども。引き揚げて帰りまして、その翌月に弟の戦死を知らせて下さる、それから公報はそれからちょっと遅れましたけれど、それから一緒に引き揚げて参りました家内の姉の婿が、いわゆる兄が亡くなった。
それから妹の婿の正が亡くなった。ちょうど半年余りに兄弟三つの葬式をさせて頂いた。その中の一番のショックは一番始めの弟の戦死であったと。そこに家族中の者の焦点が置かれて、無事帰ってくるということだけ、に願いに楽しみに待っておった。しかも戦死が終戦の十五日前であると聞いた時などは、もうほんとに神様は大体働きござるとじゃろうかと言う様な気持ちだった。
けれどもやはり信心はま、それを境にいよいよ本当の意味合いにおいての、本格的な信心になっていった。私はその月から御本部の月参りを始めた。そして私はその一番始めの月参りさせて頂こうと決心したその日に、その時の御本部参拝に、どうでも私は神様からです、こういうわけで戦死したということを聞きたいと思うた。神様から。お話の中には神の声を聞くとか、神様がお知らせを下さるとかと言う様な話を聞いてますから、一生懸命になれば、私も聞かれんことはなかろうと思うた
もう本当にそれは一生懸命でした。一晩泊まりで、あちらへ一晩中奥城に座って御祈念させてもらったけれども、朝方までそれこそお声のおの字も頂かなかった。お知らせも頂かなかった。それから翌日の汽車で、親先生のお供をしてから帰らせて頂く。ちょうどあの控所から帰ってくる、石屋の下り坂のところで、私は親先生の鞄を持って、親先生の後からついて行きよったら。親先生が「このたびは大坪さん、お土産は出来たか」とこおう言われた。そん時にです。
私は何かお土産は買うたかと、親先生は仰ったんじゃろうと思うんですけども、私はそれが「はあ出来ました」とこう答えた。そして、それから自分でも出来たとは思わないのだけれどもです、お土産が出来たとお答えをしたのと同時でした。私の心の中に何か知らんけれども、どぉんとこう一千万金のものが、心の中に入ってきた感じがしましたです。これはその時の実感ですけれども、それを説明することが出来ません。ただそれから変わったことはですね、見るもの聞くものが有難くなったことです。
御本部の駅へ、あの金光の駅で乗車する。ちょうど京都行きの汽車が着いたんです。それから復員軍人の方達が十人位ぞろぞろと下りてみえた。行きがけには、もう各駅で降りられる復員軍人さんのの中に、もしひょっとすると弟が混じっとりゃせんじゃろうかと、言う様な気持ちで、もう本当に探すような気持ちであった。そして、それは果かない考えであることが分からしてもろうてから、本当にあんなふうにして帰ってくるなら、どんなに嬉しいことじゃろうと思うての行きがけであった。
ところがね、私は御本部の駅で復員の軍人さん達に会ったときに、もう本当にご苦労さんいう気持ちだけしかなかった。そして、有難うして有難うして、また相済まなくて相済まなくてですね、本当にこうして皆さん、元気で引き揚げて帰ってみえられた。どうぞこれから本気で元気出して下さい。と一人一人にいうて歩きたいような気持ちだった。汽車に乗った。車窓から眺める。ちょうど稲がこの位ばかりに、水田の稲がのびる時分であった。もうその車窓から見るその水田がですね。
眺めさせて頂いてから、もう有難いの有難いの、もう自分がどうかなるのかと思うぐらい有難かった。あの頃は御承知のように、汽車も窓から乗ると言った様な、混乱状態のときである。ですから席ども取ったが最後、人にでもゆずると言った様な、好誼心のようなものはまずまず誰にもなかった。けれども、私はすぐ親先生と二人席を頂いてから、けれども、ちょっとこう年配のような方達が、おられると席を譲ってあげる。もうそれが、立っていくのが有難かった。
とにかく私ほんと、に親先生がどうか思いなさろうと思う位に、もうとにかく有難づくめであった。いうならばですね。私は思うたですね。お徳というのはこんなもんだろうかと私は思うたですその時に。以来私の信心の物の見方、考え方が非常に変わったというよりも、今も申しますように、何を見ても聞いても有難いという。それを私境でした。それから家事の上に、様々な事が起こりましてから、その三つの兄弟の葬式をさせて頂いて、それから、ここでちょうど酒の配給を当時やっておりましたが。
酒の配給も出来ないという、もうこれはいよいよ生活の上においても、致命的なことであった。もう親先生なんか、その事をお取次頂いておりましたから、親先生の方ががっかりなされてですね。一生懸命お願いもして下さった。けれども、私にとっては有難かったです。これは神様がこん位なこつじゃなか、もっと大きなおかげ下さるためだと、こう私は本当に実感したんですね。それから福岡行きを思い立った。
当時の福岡は私は全然知らなかった。もうそれこそ子供の頃何べんか福岡に行ったこと位しか知らなかった。私はその時分の事を話させて頂きながら、今日思うです。ほんに丁度昔の先生方が布教に出られる時、そん時の思いと同じ思いだったということでした。六本入りのお神酒、一升瓶が6本が入る、小さな篭があったです。その篭の中にお米を二、三升とそれから茶碗と、それからちょっとした炊事が出来る飯ごうのようなものと、まるっきり山登りするような事ですもん、福岡の町に行くというのに。
そすと小さい丁度この柱の、太さにちょっと広い位な長さ二、三尺ぐらいな看板を看板というて、あちらで店するわけじゃないけれども、看板かけるつもりで看板を持って行った。金桝商事という看板。勿論その当時のことですから、資本も無いのですから、まあブローカー的な闇商売より他になかった。ところが今から考えてみますと、あの時に電車の中であの看板がなくなったことで御座いましたね。おかしいですねどんなに考えても、他の物がなくなるならばってん、そん看板だけがなくなったんですからね。
降りるとき無いんです、どんなに探しても。あの時も大体商売ということについては、本当の御神意ではなかったということを感じました。それから、行く所がありませんから、荒戸の教会に参りました。もう夕方でしたでしょうが、一生懸命御祈念させてもらって、それから、吉木先生に、「今晩は親先生ここでお通夜させてもらいとうございますが」と申しましたら、「大坪さん、金光様の信心にお通夜てんなんてんなかばい」と仰った。明らかに、そげなこつはいかんということである。
けれども、お通夜の代わり、一生懸命御祈念するとだけならよかろうと思うてから、御祈念し通そうとこう思うた。私が御祈念させてもろうとったら、もう表戸もがらがらいうて閉まる。御神前の幕もしりよった。それで皆さんやすまれた。まあ二時頃だったでしょうか、一きり御祈念が終わったら、幕の陰から吉木先生が手招きしよんなさる。「大坪さん早ようやすみなさい、楽室に床をとってあるから」本当に私は感激した。なるほどあれだけ大きな教会の先生ともなりゃ違うなあと。私が一生懸命御祈念しよるのを、それまで待ってござったのですね、きっと。
そして、そういわれるもんですから、楽室にやすませて頂いて、やすませて頂いてもただ休んだだけですぐ起きてから、又朝の時間まで御祈念させてもらった。さあそれから家探しと商売探しからなんですからね。考えてみると、実にそのまあ無茶苦茶な話なんですけれども、神様が必ずおかげ下さる。私のその時の考え方なんですけれども、このお米を食べてしまう間は、もしなんなら椛目には帰らんという覚悟でした。勿論親先生から小さな新しいお社。お社は勿論お供しております。ね、
それから朝の御祈念を終わってから、お掃除なんかさせてもらってそれからお食事などよばれてから私は福岡の街に、いわば始めて商売はないだろうかというので商売探しに回った。それからあの荒戸の教会からずうっと東の方へ参りますと、五丁位参りますと須の子町という所がある。そこに何とはなしに寄ってひとつ尋ねてみろうと思うてから、寄ってから、寄りましたら、そこは見立九四郎という人の家であった。
入り口のところに大きな火鉢どん置いてから、それこそ布袋さんのような感じの、おじいさんがお茶ども飲んでおられた。風来坊のようにして私が入ってから、とにかく何かその仕事というても、他にはしきらんのだから、商売より他にはないから、なにかその無資本で、商売の出来るようなことはないでしょうかというてから。いうたから、びっくりしてから、「あんた妙なこつばっかりいうの」ち、いわれる。そしてから、大体何をしゅうちおもいよるかち。
なんでも、私は他のことは出来んけれども、商売だけなら何でもできる。手当り次第、何か資本なしで出来る商売をひとつ探して歩きよる。今日その第一日なんだ。だから「あったか」という。そしてから「福岡の街を歩いて回るか」ちこういう。「はい、そのつもりでおります」この広い福博の街を、あてもない所をそうして入りこんで、ここにはね、いろんな人が沢山集まってから、いろんな物資を持ってくる。
だから、それを委託で出すようなものもあるから、そげな商売でもされたらいいですねと話して下さった。そして、私に本当に一見識もないそのおじいさんが、私にですね。倉庫の中に自転車が一台入っているから出しといでといわっしゃった。そしたら本当にご親切は有難いですけれども、今いうように、お金はないのですよ。といわっしゃった。お金はいらんから見てこいち、こういわっしゃる。
それで見てきましたところが、宮田製の朝日の中古が入っとりますもん。立派な自転車ですもん。それを出してきました。空気入れたらそのまま乗れるんです。そんなら、御主人すいませんけれども、五日間借して下さい。というて、私は五日目には二度に払って、五日目にはそれをきれいに払ってしまう位にお商売のおかげ頂いた。もう置いたものを取るようなおかげであった。その夕方には箕島です。
いわゆる、今の基の日本ゴムの分工場があった所です。箕島の洋服屋の二階に私は間借りをした。その時に、見立さんの所から、こういう見本があるというて、繊維の見本を、布の見本をもらっていたから洋服屋さんに入り込んでその売ろうというつもりで行った。いろいろ話よったら、そこの嫁さんというのが、お産に帰っておるという。だから一月ぐらいならば二階があいとるから貸してもいいですよちいうてから、それから、私はそこを二十日余り借りた。
お神様も、小さい床の間があったからお祭りしてから、もう朝晩一生懸命に拝む。そして、箕島から毎朝荒戸へ早くからお参りするものですから、そのおじいさんがいろいろ信心の話をされる。晩になると、夕方私は下へ降りていって、仕事しよんなさる所で、お話しよりますと、近所の人達が、三人四人集まってきては一生懸命お話を聞いて下さった時代、そこを拠点として、私はそいうブローカーの商売をさせて頂いた。
一月後位にはここの広島さんと川野さんと善導寺の下津ざんと三人が入って来なさった。入って来なさる度に、私は自転車を一台づつおかげ頂いた。本当に面白い様にお商売があった。もう月末に支払いをしまってしまったら残ったお金は全部がお供えであった。もう一番始めから無資本でやっておるのだから、いつだって無資本で出来れるんだという確信だったんですね。それが一年ほど続いた。
それは面白い様にお商売が出来たけれども二年目にはそうではなかった。毎月、親先生のお供をさせてもらうけれども、三カ月にいっぺん位は奥様であった。その時はちょうど奥様のお供してから御本部へお参りさせて頂いたら、岡山へ着くちょっと手前であった、金光へ着く手前。眠っておったら、広島が怪我をしたというお夢の中にお声を頂いた。もうはっきり頂いた。
はあどうしたこつじゃろうかと思うてから、奥様にもその事を話したけれども、どういうこつじゃろうかのうというて分からなかった。帰ってみてから、確かに大きな怪我があっておった。進駐軍関係の品物を扱っておった。それがばれたんですね。闇から闇。もうそれが私の商売を止めなければならない致命的なものであった。六十万からの損でしたからね。その時分に。
勿論私が金を出してからじゃないけれども、支那人とタイアップしてからの商売でしたから、私が汚れりゃそのまま汚れてもよいようなものであったけれども、結局私が一人で引っ被ってから、それをおかげ頂いてから、ほんなこついうなら、沖縄辺にやられる所だったけれどもね。おかげ頂いてから、もう実に神ながらのことでおかげ頂いてから、何もない事になった。
まぁその時分の一年間の事をいうなら、そりゃあもう本当に、私はいよいよ神様の一分一厘間違いない、神様の働きというのは、あの一年間の間に私は体験させてもろうた。一年間はその商売が反対に、今度は修行のことだった。その頃から私の何というのですかね。神様から、胸知らせと言う様な感じのものを頂くようになった。例えばこの家に寄ってみれといわれると、寄らねばならない用事があったり、ここの帰りに電車から降りた途端に自転車が盗られた。
自転車が盗られたという感じがするんですね。これ帰ってみたら、自転車が盗られておった。と言う様にですね。そう言う様な時代。御本部参拝させて頂いた。それは、丁度久留米の初代の親先生のお立ち日に、久留米関係の人達が千本杉の奥城に全部集まられた。その後が、御本部参拝であった。その時はちょっと親先生は御都合があって、御本部参拝が出来られなかった。
それで私は福岡へとって返してから、なら私はその時、私が旅費でも持っておれば、親先生に参って頂くのだけれども、全然お金がありませんものですから、帰らせていただいた。そしたら、私の方にまだその当時、商売はいよいよだめだったですけれども、八端の反物が一反残っておった。その八端の反物を布圃を作りたいからというてから、相談させてくれんかというてみえておる方があった。
もう金銭の高いも安いもなかった。旅費とお初穂さえありゃよかと思うてから、旅費だけでそれを売らせて頂いてからそれをそのまま持って博多駅に走った。久留米の先生方とそこで合流してから・
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